誠光社

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甲斐みのりの焼きそば道楽

完璧な日々のいつもの味

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甲斐みのりの焼きそば道楽

文:甲斐みのり写真:村上誠

 長く東京に住んでいても、浅草に向かうときはふつふつと観光気分が湧き上がる。これまで東京の西側にしか住んだことがない私にとって、浅草はじめ東京の東側には、日常から離れた見慣れぬ景色が広がっているからなのだろう。子どもの頃、隣町の祭りを目指すのに、妙に気持ちがたかぶった、あの高揚感。実際、国内外から観光客が集まる浅草はいつでも祭りのような賑わいで、いまだ目に映るさまざまなものが新鮮に思える。

 このところ浅草で待ち合わせをすることがあれば、“地下鉄銀座線の終点・浅草駅の先頭車両を降りてすぐの階段をのぼり、その先の改札を出たところ”を指定する。そこにあるのは、昭和30年から続く〈浅草地下商店街〉。現存する地下商店街としては日本最古というだけあって、古めかしいという言葉だけではおさまらない、昭和遺産といえる趣だ。

 地下街の剥き出しの配管とほの暗い照明の下には、立ち喰いそばやベトナム料理などの飲食店、格安の散髪店、ビデオショップ、金券ショップ、整体や占いが軒を連ねる。そのもっとも改札よりに位置するのが、焼きそばの店〈福ちゃん〉。カウンターとテーブル数席のこぢんまりとしたスペースで、昭和39年から60年以上、母から息子へ2代に渡り続いている。ビール、日本酒、焼酎、ハイボールと酒類がひと通り揃っているから、もつ煮込やギョーザなどのつまみをかたわらに思い思いのときを過ごす人も多い。瓶ビールの銘柄が「赤星」の愛称で親しまれる日本最古のビールブランド「サッポロラガービール」というのも、酒場好きに愛される理由だろう。

 店の片隅に設えた屋台式の焼き場で仕上げる看板メニューの「ソース焼きそば」は400円。今でもじゅうぶん手頃な価格だけれど、私が初めてこの店に立ち寄った十数年前はたしか350円だった。ソースはウスターソースと濃口の焼きそばソースの2種類をブレンド。具はシンプルに、キャべツ、桜エビ、揚げ玉のみ。もっちり歯切れのいい深蒸しの太麺をほぐすのは、豚骨や鶏ガラでとる自家製のラーメンスープ。店主曰く「メニューにラーメンがあるのも、スープを焼きそばに使うため」という。幼い頃から記憶の中に存在する、祭りの屋台で食べた焼きそばに通づる、素朴で懐かしい味わいだ。まかないからいつしか正式メニューに昇格したという、昭和の家庭風「カレーライス」のルーをかけた「カレーソース焼きそば」も、ここだけの味として親しまれる。

 福ちゃんも浅草地下商店街も、“ディープスポット”と称されるような、知る人ぞ知る名店として続いてきたが、昨年くらいからどっと国内外問わず来店者が増えたという。それというのも、カンヌ国際映画祭で役所広司が最優秀男優賞を受賞した映画『PERFECT DAYS』に、福ちゃんが登場するから。スカイツリーが見える下町に暮らし、渋谷区のトイレ清掃員として働く主人公・平山が通う店という設定。ロケハンにやってきたヴィム・ヴェンダース監督は、福ちゃんを取り巻く雰囲気を気に入って、隅々まで眺めていったそう。淡々と過ぎる毎日でも、木々の隙間から差し込む木漏れ日のように、何ひとつ同じものはないと気がつかせてくれる作品だ。

 先日、福ちゃんで焼きそばを食べていたときのこと。数ヶ月に一度、福島の会津から福ちゃんにやってくるのが10年来の習慣という常連客と隣り合わせた。ここしばらくは映画の影響で客足が増えたが、本音を言えば「そっとしておいてほしい」らしい。繰り返し通う常連客にとって福ちゃんは、完璧な日々に差し込む、木漏れ日の光のような場所なのだろう。