誠光社

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しのげ!退屈くん

スマホは落としていないのに

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しのげ!退屈くん

文:安田謙一画:辻井タカヒロ

 朝起きて、しばらく経ったとき、どこかに家の鍵を失くしたことに気がついた。
 マンションの部屋の鍵と、次に引っ越す先のマンションの部屋の鍵がひとつのキーホルダーでまとまっている、いずれも失くしては洒落にならない。

 前日の行動を思い出す。

 2024年9月26日の木曜。私は京都にいた。

 ロームシアター京都で行われたジルベルト・ジルのライブを観に来たのだ。
 開演までしばらく時間があった。ちょうど小田晶房さんが聖護院でsuiroというお店を開店されたので、顔を出すことにする。

それまでの間、普段だったら誠光社や100000tアローントコに寄るのだが、ちょうど引っ越す数日前だったので、いま荷物を増やすのは馬鹿馬鹿しい。買った本なりレコードなりが段ボールに詰め込まれ、再会するのがいつになるかもわからない。

 ということで、私は鴨川の河原の木陰にある長いベンチで昼寝することにした。少しでも眠っておけば、ライブの最中にうとうとする心配もなくなる。

 答えはすぐに出た。

 私があのベンチで寝そべっていたときに、鍵は右のポケットからするっと地面に落ちたのだ。
 妻にはそうとは告げずに、少し近所を歩いてくる、といった顔で家を出た。
 念のため、最寄りである阪急電車の六甲駅で昨晩、鍵の落とし物がなかったかを問いあわせてみた。駅員は全線に届けられた遺失物を画像モニターで探してみるが、見当たらない。そりゃそうだろうな、と心で思いつつ、大人なのでちゃんと礼を言う。

 十三経由で京都へ向かう。まるで無駄でしかない移動時間を無駄にしてはいけない。

書評仕事のためにボブ・グルーエンの回想録を読む時間に充てた。好きな話題しか出ない本なので、行きと帰りで5百頁を一気に読みきった。

 家から1時間半ほどかけて、前日寝ていたベンチに辿り着いた。 

 ベンチの下、雑草が生えた地面にまるで当たり前の顔をして、2本の鍵とキーホルダーが落ちていた。
 すぐに拾えばいいものを、落ちている鍵をスマートフォンで撮影した。革製キーホルダーの焦げ茶色がまわりの落ち葉の中で保護色のようになっていた。よく見ると、その隣に50円玉も落としていた。

 鍵を見つけると、急に腹が減ってきた。
朝から何も食べていない。河原町のリンガーハットでコーンの入ったちゃんぽんを食べた。阪急電車でまた一時間少しかけて家に帰る。かなり長い散歩になってしまった。 

 それから今日まで、スマートフォンを取り出しては、鴨川の河原のベンチ横に落とした鍵の写真を何度も飽きずに眺めている。
 
 この文章を引っ越したばかりの、段ボールだらけの部屋で書いた。まだインターネットは繋がっていないので頭にあるものだけで書いてみた。こんなの何年ぶりだろう。
 クイーンは70年代、「このアルバムでシンセサイザーを使っていません」という断り書きをクレジットに入れていた。いま、その気持ちがわかった。

 知らんがな、の声が聞こえる。