一合の椀
足りない「もの」を作る
最近、一合の椀を作っている。米を一合計るための木の椀である。
何かの量を計る道具やその歴史には以前から興味があったのだが、そういったものと実用の道具作りへの関心が重なり、このところ淡々と作り続けているのだ。
もちろんプラスチックやステンレス製の一般的な計量カップが悪いというわけではないし、木製の一合升が使えないということでもない。
他にもいろいろあってもいいのでは、と思うのである。
友人たちに米を何でどう計っているのかと尋ねてみたことがあるが、米袋に一緒に入れている計量カップで計る人や、水も同じ器で計る人、自動で一合づつ出てくる米びつを使っている人、そもそも一合という単位に縛られずにマイ計量器で計っている人、など様々だった。
使う人が違うのであれば同じ一合の器といえど「深い米袋の底から掬いやすい形」や「愛用の炊飯土鍋と並べてしっくりくる質感」だったりと、各々に合うものを選ぶことが出来ればいいように思う。
元々我が家には黄変したプラスチックのものとステンレスカップ、木製の升があったが、いつどこから来たのか思い出せない。
おそらく昔なんとなく買ったか、引き出物か何かについて来たのだろう。捨てるほどではないが特に他の用途が思いつくわけでもないので長年食器棚の同じところにいる。
ステンレスカップは素材的には長持ちするのだがなんだか味気ない。
「升」は昔から計量に用いられており、構造的に誤差が少なく、量産にも向いているいわば正統な計量器の形だが、日常使用する際個人的には板の厚みが気になっていた。
指が掛かりやすいのはいいが、角がない方が持ちやすい。それにもう少し口が狭い方が指ですり切りやすいようにも思う。
米の油分と漆器は相性が良いので、漆で仕上げれば薄い刳り物でも丈夫に作れるのではないだろうか。
そういったことを考えつつ、納得のいく一合の計量器の試作を始めたのだが、これがなかなか楽しかったのである。
「一合」という量感、身体尺などとも関わりがあるのか、形にすると手への収まり具合がほどよい。「容量」という制約があるからこそ形にしやすい部分もあり、その時々で自由に作ることが出来た。
工業的に揃えて作られるべき部分をあえて手で意識して作ることや、内側と外側の形が影響し合う関係になることに、どこか彫刻的な好奇心をくすぐられているのかもしれない。
昔はどこの家にも、何世代も使われていた升や、計量器に格上げされた、欠けたお碗などがあった。単に古い物や手作りの物であればよいという訳ではないが、物が少なかった時代には道具を長く使っていただろうし、長く使う前提で作られていたものも多い。
十代の頃から使っている自作の木槌や古物屋で購入して長年使っているノミで木を削りながら、この椀も長く使えるものになれば、と思う。