誠光社

京都 河原町丸太町 書店

編集室

なまえのこと

ネーミングライツ

9

なまえのこと

漫画ナマエミョウジ文フィクショナガシン

日本政府の借金が1300兆円を超え、不気味に膨らみ続けている。私ほどの人間になると特段驚くことはない。が、しかし、この手のニュースには必ず余計な一言が添えてあり、それは「国民一人あたり1085万円の借金に相当する」というものである。すると途端に自分の責任のように思えてくるので困る。私の借金じゃないだろが。話のすり替えのように見えるのであり、恫喝のようにすら響きかねず、断然ムッとせざるを得ない。

ところで、奈良県立民俗博物館の収蔵品が開館当初から6倍ほどに膨らみ続けているそうである。収蔵しきれず、そのため県知事が、価値あるものだけ残しあとは処分する方向で検討していると会見で述べたのが話題になった。廃校になった小学校の体育館やプレハブ小屋などで収蔵庫の限界をかろうじて補っているというが(それもすごいが)、むろん場所だけではなく収蔵品の修復の問題もある。

極めて今日的な深刻な問題である。どのミュージアムも頭を悩ませているに違いない。廃棄や譲渡によって収蔵品を間引きする「除籍」という処分はとかく批判を受けやすいようである。面白いのは栃木県立博物館の例で、やはり奈良県立民俗博物館と同様に収蔵庫満杯の問題を抱え、廃棄を検討せねばならなくなり、博物館の職員全員、また外部の専門家らと収蔵品を検討した結果、むしろこれまで見えなかった価値が発見できてしまい、結果、処分されたのは十点以下だった。そのため、「除籍」の前提が崩れ、17億円かけて新しい収蔵庫を作ることになったという(MBS NEWS「保存か廃棄か スペースに揺れる博物館」2024年10月22日。ネットで記事と動画が見られる)。

17億という金額はそう簡単にオーケーが出るものではないと思うが、みんなでしっかり収蔵品を「見た」ことで、むしろ、捨てられなくなってしまったわけだ。残すことの意義を見つけたことによって、カネを引っ張ってくる、その説得力が増したのである。

奈良県でもやはり新しい収蔵庫を作ることがネックになっているようだが建設には約9億かかるそうである。ではそれをどう捻出するか。知事の仕事だと思うが、彼は「9億円あれば、県立高校の56か所のトイレをピッカピカにできるというふうに考えております」と発言しており、議事録に残されたその「ピッカピカ」という表現に私は微笑ましいものを感じたけれども、率直にいってトイレを「ピッカピカ」にすることと「新しい収蔵庫」を作ることは、本来別のことである。まるでミュージアムの収蔵庫を新しくすると県立高校の衛生環境が悪くなるかのような言い方であり、どこか「国民一人あたり」的なすり替えの恫喝風味を感じなくもない。

会見議事録を読んでいくと、知事は収蔵品全ての3Dデータを保存することで、効率よく「除籍」できると考えているようである。3Dデータさえあれば廃棄してもよい、もしくは廃棄への批判をかわすことができるというのは、他のケースでもよく聞く話である。3Dデータで保存、というように、「保存」という言葉が使われているので安心してしまうが、物じたいは廃棄されるのであり、データもまた時代が変われば「全然この情報、たりないじゃん」となりかねない。知事もそれくらいのことはわかっているだろうが、そもそも4万5千点という膨大な収蔵品の3Dデータを得るには相当な予算が必要となる。実際県の文化予算全体の何倍にもなるという計算も出ているようである。内部からも「非現実的」という意見が出ており、そうなると全てを3Dデータ化して保存するのは無理だから3Dデータで保存する価値があるかどうかをまた見極める必要が出てきてしまうという、いささか滑稽な事態を招くことになる。

物を残す、その役目を担うのがミュージアムであり、ミュージアムを運営するということは、お金のかかることなのであって、金をかけずにやろうとするのがそもそも間違っているのだから金をかけるしかないのである。しかしながら、彼の先輩格にあたる別の知事もまた、新しい収蔵庫を作ることに対して奇妙に重い腰の持ち主のようであり、一昨年の夏のことであるが、大阪府咲洲庁舎の地下駐車場に府所蔵の「大阪府20世紀美術コレクション」の中の作品105点を「収蔵」していたことが発覚した。錆びたり傷ついたりしてしまっていたため、修復の予算を計上するということになったようである。ツケが回ってくるとはこのことであるが、お金がないのならばどこかから持ってくる。トップの基本的で重要な仕事である。

10年ほど前にDIC川村記念美術館のバーネット・ニューマン「アンナの光」(1968)が売却された。目玉作品だったのだから苦渋の決断だったろうし、それほど美術館の維持が難しくなっていたのだろうと推察する。今年はとうとう閉館することになってしまった。作品の大半を売却し、規模を縮小した上で都内へ移転するというニュースが昨年の暮れに入ってはきたが、もはや別の美術館としか思えず、売れる所蔵品がある企業系美術館というのもまた悩みどころであるなあと、しみじみと感じた次第である。

公立のミュージアムは所蔵品を売却できない。作品の購入すら今ではなかなか難しいようである。入館料収入では当然まかなえず、市や県、あるいは国からの予算が頼りとなるが、いざ何か起こると真っ先に削られてしまう(コロナの時がそうで、議会の承認を得られず、キャンセルになった展覧会は多かった)。となると、売れるのは名前くらい、となるのも仕方がないのかもしれない。

民間企業に、どうぞお使いなすって、と、おのれの名前の場所を差し出す。スポンサーとしてその企業名を冠した施設名になり、企業にとっては宣伝効果が期待できるし、施設側としては、持ち出しなく不労所得的にお金をゲットできる。ネーミングライツと呼ばれるものである。

日本ではスポーツ系の施設でよく行われている。本邦初のネーミングライツは、1997年のことで、西武鉄道が保有していた東伏見アイスアリーナが、サントリー東伏見アイスアリーナになったのが最初である(『ネーミングライツの実務』市川裕子/商事法務/2009)。

本書によれば、ネーミングライツはアメリカで発展したとあるが、名前まで売りに出すとは、さすがビジネスの国だとその一貫性に感心する。賃貸であり、その宣伝効果を維持するためにはお金を払い続けなければならない。日本でのもっとも早い時期の、高額かつ有名な例といえば、東京都所有の多目的スタジアムである。東京スタジアムというのがその正式名称だが、開業1年後の2002年12月に味の素がネーミングライツを取得し、味の素スタジアムという名前で呼ばれるようになった。

味の素スタジアムは、今でも味の素スタジアムであるが(現在5期目)、先のサントリー東伏見アイスアリーナではサントリーは更新せず、2006年からダイドードリンコアイスアリーナに名称が変わった。渋谷区が所有する渋谷公会堂も同年から5年間、渋谷C.C.Lemonホールになったのだが、更新しなかったため、一時的に「本名」の渋谷公会堂に戻った。その後LINEがネーミングライツを取得して、LINE CUBE SHIBUYAになっている。

「日本の命名権導入施設一覧」というのがウィキペディアにあって膨大な数のネーミングライツが全国で実施されているのがリストになっているのだが、そのほとんどの契約年数が、5年から10年の更新である。その中で異様なのはロームシアター京都と京都市京セラ美術館の50年間だ。支払われる金額も大きく、共に50億円という価格であり、「1年1億円」とのことである(ロームは一括、京セラは分割払い)。ロームシアター京都は令和48年まで、京都市京セラ美術館は令和52年までとなっている。

ところで、先の『ネーミングライツの実務』の著者によるとネーミングライツの定義は「施設、設備等対象物に対し名称を付与することに一定の経済的価値を見出し、この名称を付与する権利」となるが、日本ではその定義が曖昧であることを指摘している。著者はまたネーミングライツの対象を単に「名称」としているけれども、自治体のホームページを見ていると、ネーミングライツとして募集するのは「通称」とか「愛称」であるとなっていることが多い。

DIC川村記念美術館と同じ千葉県佐倉市にある佐倉市立美術館のネーミングライツがちょっと変わり種である。企業名が前とか真ん中とか、目立つところにくるのではなく、美術館名の後ろにつくというもので、しかも企業名ではない。では何かというと企業のスローガンで「佐倉市立美術館!…GC」となっている。ジィシィ企画という企業名の、その企業ロゴでありコーポレイトスローガンが「“!”そこに…GC」なのである(正確には「C」の上部にも小さな「!」がついている)。美術館のホームページには「“そこに”を除いた」とあるが、もし「そこに」を付けた状態にしたら「佐倉市立美術館!…そこにGC」となり、乗っ取られ感が出てしまうのを危惧したのだろうが、本来ネーミングライツは我が社ここに参上!的なものであるはずで、何をいまさらと思わないでもない。

そのことは、佐倉市立美術館運営協議会の議事録にも記録されている。今回のネーミングライツについて「正式名称はこれまで通り」とか「あくまで愛称」という発言が見受けられ、「結果として呼称は変わらなかった」といささかホッとしているようであり、何か後ろめたさを感じているのが伝わってきて読んでいて切ないほどであるが、もちろん恥じることは何もない。胸を張り、元気よく「佐倉市立美術館!」と叫んでみたらいいと思う。

売れたら売れたでやはり馴染んだ名前は手放したくない、新しい名前はできるだけ目立たないようにしたい。本音としてそういうのがあるかもしれない。例えば、大阪市立中央図書館はネーミングライツを実施して辰巳商会中央図書館という「愛称」になったが、この愛称が表示されるのは、「当館看板と当館案内」のみとのことである。窓口対応、電話対応、イベント告知などは「本名」の大阪市中央図書館を使用していると明記されている。もちろんそれが悪いのでは全然ない。全然ないのだが、口にも出さないならそれはもはや「愛称」ですらないのでは、と思うのである。

さて、あっさり話が飛ぶのであるが、レンタルなんもしない人がいるということは知っていたがその著作を読んだことはなかった。右京中央図書館でレンタルしてみた。『レンタルなんもしない人のなんもしなかった話』(レンタルなんもしない人/晶文社/2019)が最初の本で、その後2冊の続編(『レンタルなんもしない人の“もっと”なんもしなかった話』[2020]『レンタルなんもしない人の“やっぱり”なんもしなかった話』[2023])が刊行されている。「なんもしない人」として自分を貸し出すという人を食った「サービス」を始めたところそれが意外にも早々に多くの人に受け入れられてしまう。どんな依頼だったか、どのようなやりとりがあったのか、ツイッターの文章を辿るドキュメンタリーである。

自分を、一定の時間、貸し出す。ただし、特になんもしない、というのが「レンタルなんもしない人」というサービスである。1人では寂しいので一緒に水族館に行ってほしいという依頼があれば一緒に行き、誰にも言えない秘密の話を聞いてくれと言われたらそれを聞く。退職届を書くのを見守るとか、『耳をすませば』を見ながら手作りの餃子を食べてほしいとか、がんの再発の検査に付き合ってほしいとか、一緒にパフェを食べてほしいとか、今日SEXするかもしれないので12時に爪切れと連絡がほしいとか、それらの依頼に応じるのであるが、立派に何かしているじゃないかと言えばそれはそうである。

確かに「なんもしない」ことは難しい。だが、役に立つことが目的になってない。便利屋さんとはそこが違う。「役立ってしまう」としてもそれはあくまでその依頼者個人に対してのみであり、その時限りのものである。売れ残りで廃棄するご飯を食べてほしいという客足が閑古鳥の飲食店からの依頼はその人にだけ切実なものである。ただその人にとってだけ、その時にだけ、価値を持つ依頼なのである。

この3冊で、2018年6月のスタートからコロナ禍を経て、2022年12月までの記録を読むことができるのだが最初のがやはり新鮮なインパクトがある。続く2冊がつまらないわけではなく、「なんもしない人」としての経験が積み重なり、依頼のリピーターが出てくるほど繁盛するのだがレンタルなんもしない人のスタンスはなんも変わらず、何を経験してもそれはそれでその分だけまた新鮮になるだけ、常にゼロに戻る。そんな不思議なループが完成している。

立川駅からの交通費、飲食があれば飲食代という実費のみだったのが途中から1万円の有料化に踏み切る。それでも依頼は絶えず、個人のプライベートな空間にドカドカ侵入しているにもかかわらず清々しい印象のままなのである。「一人とは何か」を読者に考えさせる(具体的に「一人」とは何かを考えるような、そういう依頼もあった)、3冊とも傑作である。

読み進めていると、自己言及的なくだりがしばしばある。先の「なんもしない」ということがそもそも難しいというところもそうだし、レンタルなんもしない人という名前があることで、自分は「なんもしない」ができるのかもしれない、と述懐する場面などがそうである。この看板があるから自分は「なんもしない」ができるのであって、これがないと、普段の自分は子育てや家事、あるいは人と会っても気をつかったりとか、いろいろなことをやってしまうのだ、と。

ところでまた話が変わるが男性用便器をそのまま展示することも「なんもしない」の系譜に位置付けられそうである。「横に倒しているじゃないか」とか「サインを書いてるじゃないか」とか、「なんかしている」という問題が生じてしまうところも「なんもしない」精神が宿っている証拠かもしれない。「なんもしない」アートがかつて一時代を築き、今も伝統芸として、継承されているのをたまに見かけるが、現在のトレンドはおそらく真逆であろう。というのは、超絶技巧を披露したり、真面目にリサーチに走ったりするような「なんかしないではいられない」という光景をしばしば目撃するからである。サービス過剰というか、なんでそうなってしまったのか、興味深いところである。

しかし伝統というのは、怖いものである。先日のことであるがイタリア人のなんもしない派マウリツォ・カテランの、壁に灰色のスコッチテープ(粘着テープ)でバナナを貼り付けた作品が9億7千万円で落札されたのである。バナナは、なんもしない派の会長ともいうべきウォーホルによる、ヴェルヴェットアンダーグラウンドのジャケットのバナナ絵に対するリスペクトだろうと思われる(バナナの向きは逆にしてある)。この現物バナナ貼り付け作品は2019年に発表されたもので複数のエディションがあり、当時すでに1300万円とかそれくらいで売れていた。それがこのたびこれほどの金額で落札されたわけである。

カテランはヴェネチアビエンナーレに初めて出た時、自分のスペースを広告代理店に貸し出した。その広告代理店によって香水の看板が会場を飾ったが、貸した方ではあるものの結果として彼の名前は有名になったわけで「なんもしない」というネーミングライツ精神を発揮しているといえる(広告代理店が間に入るのもネーミングライツではよくあることである)。タイトルは「働くことは悪い仕事(Working is a Bad Job)」という身も蓋もないものである。今の視点から見ればむしろ転売精神に近いかもしれない。

壁に貼り付けたバナナを落札したのは、暗号通貨の起業家で中国の大富豪ジャスティン・サンだが、彼は落札した際に、作品を食べると宣言した。まだ34歳であり、食べ盛りであるし、お腹が空いたのなら当然だと私は思ったが、その後、香港の最高級ホテルに記者達を呼んで食べてみせたのが記事になっており、食べることで「作品の一部になる」というような余計なことを述べたらしく、がっかりした。そのような安易な思いで食ってしまったら、それは古典的な現代美術の単なる反復に過ぎないからである。食ったり寝たり、走ったり水を飲んだりなどすでに現代美術の住民達がやり尽くしてしまっていることである。

彼はなんもいわず1人でそっと食えばよかった。というか、なんもしない人に立川駅からの交通費と1万円を払って「僕がバナナを食べるところを見守ってほしい」と依頼すればよかったのである。

あるいは、なんもしないのでよかった。バナナは食べず、単に腐るべきだった。9億7千万円が腐る。それが仮想通貨の起業家として、極めて正しい道ではあるまいか。そしてバナナは、多少行儀が悪いかもしれないが、道に捨てられるべきだったのでは。誰かが歩き、それに足を取られて滑ったら作品としても本望だったろうと思う。そもそもこのバナナは「コメディアン(Comedian)」という陳腐なタイトルだったのだから。

「なんもしない」ということで思い出すのは、今年の夏に亡くなった石川好が、40代の真ん中くらいで新聞に発表した「何もしないという選択」という評論である。イラクのクウェート侵攻(湾岸危機)に際して書かれたもので、世間では、自衛隊を出すかどうかで揉めていた。アメリカは、あるいは世界は、日本は汗を流せ、カネも出せ、人も出せ、貢献しろ、と言ってくる。しかし日本は戦争に加担しないという憲法を持っている、ということで世論が戸惑っていた。だが、政治家は、今こそ何かやる、なんかしないではいられないと興奮していた。

そこに、彼は、いや、あえて何もしないでいるべきだと書いたのである。このような国際的、軍事的な危機的な状況に、何もしない。当然、世界から非難を浴びることになる。だが、外国からそのような非難を浴びてこそ、日本は初めて戦後、主体的に、物を考えることができるだろう、そのような内容だった。

やぶれかぶれ、おそらく彼の著作にも収録されていない、思いつきの原稿だろうが、そこには一握りの迫力があった。軍事的に加担する一択しかなさそうだという当時の空気の中で、揚げ足取り的に選択肢を増やしてみせたその厚かましさが、40代の彼の良さだったように思う。残念ながらその選択肢を日本は選ばなかった。結局、「何もしない」ことに耐えきれなかったのである。

ネーミングライツで国名を50年貸すといくら入るだろうか、と、ふと、国債発行額が過去最高になったという毎年繰り返されているニュースを聞きながら思った。冒頭の「日本の借金」のことを思い出したのは、このせいであった。もし、「国民の一人」としてこの借金を背負うのであれば、私は海外の富裕な国に50年間、国名を貸す。

正式な名称は日本だけれども、愛称や通称として、手を挙げてくれたスポンサーの国名を組み合わせて、この混迷なる低成長の日本を乗り切る覚悟だ。映画のように複数の国が連携してパートナーになってくれるのも歓迎である。表記はどうしよう。日カタール-ドバイ-マカオ本だろうか。国名をオークションしたらジャスティンは買ってくれるだろうか。仮想通貨と仮想現実の世界で日本を大きくしてくれないか。奈良県知事は日本をデータ化して保存してくれないだろうか。恥ずかしがることはない。50年すれば名前は戻ってくるはずである。日本を取り戻す。そして、豊富な地下水と湧き水を利用して清らかな資金洗浄を施す国として日本は生まれ直す。その決意が私にはある。もっとも、50年後というと私は100歳を超えており、もしかしたらそもそもの国名を「なんだっけ」と忘れてしまっているかもしれないけれども。