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なまえのこと

途中で名前が変わる

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なまえのこと

漫画ナマエミョウジ文フィクショナガシン

昨年の9月、ナレンドラ・ダモダルダス・モディ首相は自国が議長となる国際会合で、「バーラト」と表示されたプレートのある席に座った。

本来ならそこにはインドという名があるはずで、これまで実際そうだった。それが我々には馴染みのないバーラト(BHARAT)なる国名と差し替えられている。国民的にはこれがもともと、この国を示す名前であった。インド(INDIA)は西洋サイドが勝手につけて、それが定着したまでのことで、「本名に戻した」にすぎないというわけだ。

外国から与えられたインドなる英語名。そこから脱却せんする、政治的に熱いストーリーを読むことができるだろう。ナショナリズムを煽り、政局を有利に運ぼうとする思惑もあるに違いない。だがこれからが大変だ。「インド」という巨大な、存在感のあるメジャー級の名前に勝ち抜くことは、並大抵ではないと思われる。

ところで、巨大な名前との戦いと言えば、あるひとりの、痩身なアメリカ人のシルエットが誰にも浮かぶ。

その男、プリンス・ロジャーズ・ネルソンは、35歳の誕生日に、男女の記号などを組み合わせた奇妙なシンボルマークを自身のこれからの名前だとしてそれに改名した。読み方はわからない。読めないままで本人は平気だったが読めないものは読めないのであり、ラジオのディスクジョッキーは大変困惑し、The Artist Formerly Known As Prince(かつてプリンスと呼ばれたアーティスト)と便宜的に呼ばれるようになった。

インタビューの際に名前を訊かれ、「僕の名前はこれだ」と言ってシンボルマークを見せるというエピソードが私は好きだが(アーサー・リジー編『プリンス・インタヴューズ』押野素子・橋本司訳/リットーミュージック/2023)、結局リスナーや読者に紹介する際にはジ・アーティストとか元プリンスと呼ぶに至り、本人がいないときは、「プリンス」とはっきりスタッフは言い続けていたようである。改名騒動は巨大なレコード会社に対する抵抗だったようであるけれども、「読み方がない」という言葉への挑発は、彼の音楽そのものとしっかり重なり合っているように思う。ともあれ、ミレニアムには元プリンスは元のプリンスに戻った。死後の今でもなお、まるで現役かのように未発表曲がじゃんじゃん出ており、それは嬉しいことであるが、何もなかったかのようにプリンスと呼ばれているのがいささか残念である。

名前とは自分のものであるより、人のものである。人が呼ぶものであり、名前は自分では呼ばない。「フィクショナガです」と私は自己紹介はするけれども、それも相手あってのことである。例えば、「フィクショナガさん、大変申し上げにくいのですが、服の裏表が、逆のようですよ。タグが見えています。Lサイズなんですね……」と、こんなふうに人から呼ばれるのが、自分の名前なのである。自分の名前は、常に人の声によって呼び出されるのである。ちなみに、服を裏にして着ていたのは事実であり、サイズがLであるのも最近の私の体型の真実であるが、人は、老いても、太っても名前は変わらない。体重が増加したからといってフィクショナガナガシンシンとはならない。名前というのは自分のものではない。人に覚えてもらい、定着してこそなのである。

バーラトというのが、いささか政治的、男性的、青年的な「熱い」国名変更の意志を感じるのに対し、オーストリア大使館が、「オーストリー」と日本語表記するよう提唱したのは、必要に迫られての国家の実務上の悲哀が、感じられる。実際、これは日本語だけではなく英語でも同じなようで、「オーストラリア」がスロベニアにフェンスを建設したとCNNが報じたり、ウィーンで当時の国連事務総長が、ホスト国である「オーストラリア」に感謝、と述べたりしたことがあったという。私の知っている限りでは、オーストラリアは特に気にしてないようである。

国名を「オーストリー」にするには「国名変更」を外務省に届け出をするなど正式な手続きが必要だそうだが、メディアで定着しなかったためか、結局オーストリア大使館は、そこまではしなかったようだ。2年半前にウクライナの首都はすぐにウクライナ語読みの「キーウ」に変更されたが、それは大使館ではなく日本の政治家からの提案だったという。途中から馴染んだ名前が変わることの困難についてはすでに触れたけれども、キーウはすぐに浸透した。外務省のホームページには変更の理由はロシアの侵略を受けたことに対し、「ウクライナとの一層の連帯を示すため」とある。やはりここにも政治的な意志が働いている。

ところで、途中で名前が変わるといえば、襲名というのがあるが、かつて実在した別人の名前を名乗ることであり、不思議な伝統である。2年前に亡くなった円楽は、もともと楽太郎だった。三遊亭円楽といえば五代目の印象が強い。2010年に楽太郎が六代目を襲名することになり、私はその時初めて、あの大柄な円楽が五代目だったのだな、と知ったのである。五代目の前には、もちろん四代目がおり、さらに、三代目、二代目、初代、と、血縁ではない人間が江戸時代まで繋がり、遡るのである。楽太郎は五代目の付き人になってから命名されたというから、長年ずっと楽太郎だったわけで、襲名で得た円楽という名より、元楽太郎の方が我々には馴染みがあった。二代目楽太郎がいずれ現れるのであろうか。

だが、アートの場合、例えば二代目手塚治虫を襲名というのはない。あったとしたらむしろそれは蔑称として機能するだろう。三代目魚武濱田成夫という詩人はいるけれども、それは、全体が作家の名前である。作家というのは、一代限りのオリジナルの存在、現品限りというのが、文学を含むアートの真髄であると信じられている。

ところで近年、物故した作家の「新作」をAIによって求める動きがある。手塚治虫のキャラなどをAIが創作した新作「ぱいどん」とか、エピソードにまでAIを関与させたブラックジャックの新作などがそれである。今はまだ試作段階であり、ネームを生成することもままならず、両作を私が読んだところでも、「調子の悪い時の手塚」がリアルに再現できているとは思うものの、作品としてあまり感心しなかった。試みは評価できるが……と言われちゃいそうな感じがあり、それは本意ではないだろう。「TEZUKA2020プロジェクト」とか「TEZUKA2023プロジェクト」という生身の人間を含んだチーム名が作画者名になっているが、AIによって、人間なしで漫画制作の全プロセスが手がけられるようになったら面白い。将来的に「襲名」できるほどのテクニックをAIが手に入れたらば、「二代目手塚治虫」などと、より人間的に表記されるかもしれない。

襲名は、人間の寿命を超えて同一性を存続させる、いわば国家みたいなものであるが、国名を途中で変更するのが困難なように、途中で名前を変えることは、リスクを伴う。人になかなか覚えてもらえないからであるが、むしろそれを逆手にとって、「名前変える人」として、それ自体が、コンセプトにしている作家がいる。

その人、西野達は、他にも「大津達」であるとか「西野竜郎」であるとか、「Tatsurou Bushi」であるとか「Amabouz Taturo」とか「Tazu Rous」とか、海外での活動も多いことから漢字表記にこだわることなくワールドワイドに名前を微調整しながら活動している現代美術のアーティストである。作品集は『西野達完全ガイドブック』(月曜社/2020)で刊行されているし、昨年情熱大陸に出た時も「西野達」だったが、同じ年「西野辰」としても個展を開催している。

名前というのは人のもの、他人が覚えてこそ、と、さっき言ったけれども、名前には公共性が宿っているということである。彼は、公共、パブリックというものを相手に発表してきた。情熱大陸では、1日だけ、渋谷のハチ公を取り囲むように仮設の室内を作り、野ざらしのハチ公を室内犬に変えた。シンガポールのマーライオンもまた、建築資材で取り囲み、内装も完璧に施して、これはホテルの部屋のように仕立て上げた(実際に宿泊できる)。ハチ公の場合もマーライオンの時も、パブリックな空間の正体を仮設のプライベートな空間に引きずり出すプロジェクトだった。

襲名という制度、あるいは名前を微調整して確定させないというコンセプトがあると、名前が途中で変わるのは「なるほど」と納得できるし、面白くも感じるが、全くその意図が不明な名前の修正は不気味である。中野重治という作家がいるが、彼は、詩人中野重治としてデビューし、中野重治として小説を書き、戦前に政治活動で逮捕された時も中野重治であり、国会議員中野重治でもあって、「政治と文学」論争を戦後に展開していた時も文学者中野重治だったが、ある時から、なかの・しげはるになっている。

「群像」の1996年10月号に、創刊号からの総索引として全ての目次が載っているのだが、それを見ると中野重治は1952年1月号から「なかの・しげはる」である。同じ号には、きだ・みのるもいるのが何か運命めいたものを感じさせるが、なかの・しげはるは5年後の昭和32年1月号からは「なかのしげはる」に微妙に変化してみせる。ナカグロ「・」が消失するのであるが、ということは、もしや、と、目を凝らすと、「きだみのる」になっている。同時にナカグロが取れるのは偶然とは思えぬから、編集部からの提案だろうが、そのまま「なかのしげはる」でいくかと思えば、昭和34年8月号の創作合評では、彼の小説「梨の花」が、「中野重治」の作品として論じられている。ただ、これは一時的な復活だったようで、翌年3月号に彼が書いた小説はまた「なかのしげはる」名義である。しばらくそれが続くが、3年後の1964年5月号の小説「声帯模写」は「中野重治」と漢字に戻り、翌年から連載される長編『甲乙丙丁』も「中野重治」で、以後ずっと「中野重治」である。

今では、その当時の作品も全部「中野重治」名義として読まれ、中野重治全集として刊行されているのだから、ひらがな時代を知らない人も多いかもしれない。伝記などを読んでみても、彼がひらがなで名前を書いた意図について触れたものは、私の知る限り、ないようである。触れるほどの意味が何もないからかもしれない。プロジェクトでもなんでもないわけであり、気まぐれに過ぎないとしたら、むしろ、かえってそれが怖い。プリンスや楽太郎や西野が常識人に見えてくる。彼らの名前の変化には意図があり、意味があった。しかし「なかの・しげはる」には見当たらない。気まぐれこそ、もっともプライベートな、その人だけの思いと決断なわけで、他人に説明がつかない。

「なかの・しげはる」ほどの衝撃ではないが、『カタリ鴉』などで知られる青野聰は、途中で「青野そう」となった瞬間があり、「すばる」だったと記憶しているが、私はそれを読者として目撃した。「選挙ポスターみたいな名前だな。この男、なぜ、半分だけひらがなにしたのだろう!」と軽く衝撃を受けたのを覚えている。私が目撃したくらいだから、80年代末か、90年代だと思うが、だとすると、彼が40代後半から50代にかけてくらいか。中野重治が「なかの・しげはる」になったのは50歳の時であるが、なんとなく、その年頃の男は「さて、名前でもちょっと変えてみるか」という気分になるのだろうか。

選挙期間が終わったかのごとく、「青野そう」はすぐに青野聰に戻った。英語にすればそもそも別に意味のないことであるが、何で「青野そう」にしたのかを訊ねた人がいて、それを読んだ記憶もあるが、その問いに対して青野は、いや、特に意味はない、と答えたそう、だ。