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潜在的に危険な小惑星(Potentially Hazardous Asteroid/PHA)というのがあってNASAによって2000個ほど、監視対象になっている。

今年の6月、そのうちの2個の小惑星が地球の近くを前後して寡黙に通り過ぎていったようである。小惑星2011UL21の方は、かなり大きく、「惑星キラー」という恐ろしい名のチームに分類までされているほどであるが、幸い月よりも遠い場所をさらりと通過するだけだった。事前に、衝突の危険はちっともないことも明らかにされていたようだ。

もうひとつの小惑星2024MKは、ショートサイズで、もし衝突しても部分的に被害が出る程度だったという(それでも大変なものだろうが)。この小惑星は、月との間に割り込むように通過する接近タイプであるのもさることながら、通過の13日前に見つかったばかりというから、それまでずっと隠れていたわけであり、あっぱれと言わざるをえない。

昨年発見された小惑星2023DWは、軌道計算により、2046年に衝突する可能性が指摘されていた。常に新たな確率が算出されており、危険度も格下げになっているようで現段階では危険はないという。喜ばしいことではあるのだが、「危険な地殻変動」や「危険な政治家の出現」や「危険な暑さ」や「危険な円安」がすでに常態化していることからもわかるように、「危険」にさらされることを地球自身が求めているというフェーズに入っている現在の地球のトレンドからすると、「潜在的に危険な小惑星」の出番もそう遠くはないような気がするのである。

ところで小惑星の数字の最初の4桁は、発見された年を示すとのことで、それはそれでわかりやすいけれども、例えば、2029年に月よりも内側の距離で接近する小惑星は発見当時、2004MN4と呼ばれ、遠くない将来に衝突の恐れがあると超危険視されており、翌年にはアポフィスと名付けられた。エジプト神話に由来するカオスを引き起こす大蛇の怪物のギリシャ読みであるが、これなら同僚とのちょっとした会話でも、「アポフィスがさあ」と話題にしやすい。記号や数字では、覚えることもままならない。

そのアポフィスもまた、現在のところ衝突の可能性は否定されているが、それでも地球から割と近いところを軽く挨拶しながら通り抜ける予定だそうであり、しかもその後も繰り返し訪問してくるそうだから、今回はちょっと様子見程度ということかもしれないのである。

もちろん、我々人類は、衝突する・しないを計算するばかりではなく、積極的なアプローチも開始している。無人探査機を打ち上げ、それを小惑星に衝突させて軌道を変更させるというものである。破壊の対象になったのは、小惑星ディモルフォスで無人探査機はDARTという(Double Asteroid Redirection Test)。広大な宇宙の中の小さな的をめがけて放つわけで、ダーツを念頭に名前を付けたのは明らかである。洒落たネーミングと感心するが、その昔、アメリカとソ連(ロシア)の間で結ばれた戦略核兵器削減条約というのがあり、それがSTARTと名付けられていたのを私に思い出させた(Strategic Arms Reduction Treaty)。DARTがディモルフォスに当たる直前までの様子は動画も公開されているけれども、その後の分析で、公転周期が短くなり、軌道も変わり、小惑星の形も変わったそうである。ディモルフォスからすれば、自分は何もやってないのにいきなりぶん殴られたわけで、危険な奴らがやってきたと恐怖したに違いない。

松本零士『銀河鉄道999』(小学館/1977-1981)には惑星が、爆発して消えていった話が何度も出てくる。「好奇心という名の星」「原始惑星の女王」「二重惑星のラーラ」「大酋長サイクロプロス」「卑怯者の長老帝国」「透明海のアルテミス」「幽霊駅(ゴースト・ステーション)13号」「マカロニグラタンの崩壊」「マグネット駅の一族」「ブルーメロンの決闘」などである。人為的な作用によって、これらの回のラストに、星が消滅してしまうのである。

爆発ではないのだが、かじられ星というのが登場する回があって(「停時空間のかじられ星」)、その星は、リンゴのようにかじられてしまい、最後は芯だけになってしまうような星であり、それもまた消滅の一形態であるが、スイカのような星であるとかマカロニのような星であるとか食いものをかたどった星が目立つのも松本零士の宇宙の特徴かもしれない。

星の爆発、破壊について気になるのは、銀河鉄道が停車し、主人公の2人が一時的に下車したことが破壊を促しているように見えることが多いことだ。2人さえ来なければそのまま存在したかもしれない。そう思ってしまうのだが、そもそも銀河鉄道のオフィシャルな駅がその星にあることが、破壊を運命付けてしまっている、そうも言えるだろう。

『銀河鉄道999』は、永遠に生きられる機械の体を手にするため、殺された母親との約束を果たすという信念のもと、星野鉄郎少年が、謎の美女メーテルと共に、地球から太陽系の外へ、さらに天の川銀河からも出て、アンドロメダ銀河の中心まで、長い旅をする物語である。地球からアンドロメダまでは250万光年ほど離れているが、そこへ至るまでに実に多くの星に停車し、様々な出会い、別れを鉄郎にもたらす。

長大な物語だが、実は短編の連続という感じもあって、毎回、驚くべき惑星が登場する。特に私が好きなのは、明日の星という名の惑星である。別名大四畳半星と呼ばれてもいて、実際、地球の、しかも日本の昭和時代、それも30年代あたりに激似の生活環境の星なのである。ここには同じ作者による『男おいどん』の主人公そっくりな男が出てくる。彼はまさにおいどんのように四畳半のアパートで、洗濯してない大量のトランクスを押し入れにしまって全然平気な男なのであるが、気のいい男で、鉄郎とすっかり仲良くなる。

明日の星に到着早々、鉄郎もメーテルも、少年によってパスが盗まれてしまっているのだが、その少年もラストで、あっさりそれを2人に返却する。本当は純粋な、いい奴なのだ。鉄郎は、その盗人の彼のことも「いっしょに暮らせばあいつだって親友になれそうな気がしたんだ」と言う。メーテルは、なんで盗もうとした相手なのにそんなふうに思えるのか、と不思議がるけれども、鉄郎の優しさか、あるいは、この星の住人は心の中で誰もが優しさを持っているためなのか、それはわからない(両方だろう)。この「大四畳半星の幻想」の回は、珍しくドンパチが出てこないし、人も死なない。派手なところが一切ないのだけれども、もっとも不思議な印象を読者の私に残した。

果てしなく遠い、未知の宇宙を描くのは難しい。人間ではないような、宇宙人を出してしまうとかえってリアリティがない。多くの作家が頭を悩ませてきたし、そこが腕の見せどころというか、新しいアイデアを競わせてきたとも言えるだろう。

例えばポーランドの作家によって1961年に発表された小説は、その星の大半を占める「海」が人間に対してあるコンタクトをしてきている、人間とは異なる知性を遠い宇宙に設定すべく考え出した。

また、そのポーランドの作家から一回り年上の日本の作家の、50年ほどかけて未完に終わった小説は、地球での3日間の話だけれども(完成すれば5日間のはずだった)、「未出現宇宙」や「亡霊宇宙」などの多元宇宙的発想なしには語れなかった。

話を遠くへ投げるためには、人間的な発想を超えなければならない、人間には思考不能なことを考えなければならない、というそのような使命感が、遠い宇宙の、考えられないようなアイデアと作家を結びつけたのかもしれない。

けれども、松本零士は、むしろ逆に、人間でしか考えられない、とりわけ若い貧乏な人間にしかできないエピソードをこの大宇宙に投げ込んだ。

大四畳半惑星は、松本零士の宇宙でしかありえない惑星だった。アニメーションの演出家を目指す宇宙人(体が光る女性)が登場する「螢の街」の星も、松本零士の宇宙にしかありえない。「足音村の足音」の回の女性の幽霊が、少女漫画家を目指しているのも、松本零士の宇宙でしかありえないことだろう。宇宙とは、人間が考えられない途方もないものであるはずだ、という読者の我々の思い込み、浅薄な期待が、ガラガラと崩れてしまう。鉄郎は、彼女らの「夢」を受け止める。アニメーションの絵コンテを彼は大事に読み、涙する。漫画の原稿を彼は大切に探し出す。松本零士は、宇宙とは、四畳半のアパートがあり、屋台のラーメン屋があり、アニメーションの演出家や漫画家を目指す若者らがあちこちにいる、それくらい広大で、無限な空間を持った、まったく遠慮のない、本当の意味で「途方もない」ものだ、と我々に気づかせてしまうのである。

夜空と宇宙は違うと言ったのは保坂和志であるが(『世界を肯定する哲学』筑摩書房/2001)、盲点を突いた指摘で、確かにそうである。例えば「北極星」というのは「夜空」の中にしかない。

こぐま座のαがその「北極星」の名であるけれども、地球から見るからこそ動かぬ北の夜空の一点であり、航海の指標になったりもした。そのため、地域によって様々な名前で呼ばれている。その数多くのバリエーションが北尾浩一『日本の星名事典』(原書房/2018)に収録されている。

まずヒトツボシとかキタノホシ、ホクセイというように呼ばれているのが目につく。北極星らしいネーミングである。ネノホシ(子の星)と呼ばれていたりするのも、十二支で北の方角を示す「子」が由来だと理解できる。フドーボシ(不動星)という地域やシンホシ(心星)というところもあり、メジルシボシサマ(目印星様)と身も蓋もなく呼ぶ例も紹介されている(丁寧ではあるが)。不思議なのはどれも北極星のイメージに従順なことである。パンチがないというのが私の率直な感想で不満なのだが、大阪の泉佐野では、トクゾウボシ(徳蔵星)と呼ぶそうである。これには感動した。徳蔵とは人の名で、船乗りとして主に西日本の各地に伝承があるそうだ。

徳蔵とは何者か。北極星は動かないと言われているが、実は少し動いていて、その「動いている」を見つけた人は、桑名屋徳蔵の妻だという。

なぜ妻がその微細な事実を発見できたのかというと、徳蔵は船乗りで、夜に船出し、北極星を目印にしているが、船ではその微妙な動きまではわからない、だが、彼の妻はその時刻、家で仕事をしているため、障子越しに見上げるなどして、動きを知ることができたというのである。この伝承は地方によっては徳蔵の名前が変わったり(徳兵衛とか)、夫妻2人で発見した、となっていたり、違いがあって、中には徳蔵は化け物を追っ払うような男だった、と、北極星とは無関係な勇敢な人物として伝わっていたりもするのであるが、先の泉佐野では、とうとう星の名前になってしまったのである。

徳蔵星。全然方角と関係ないところがいい。